2007年11月14日

物事の本質 このエントリーを含むはてなブックマーク

物事の本質

たまたま検索でひっかかったブログに「なぜ人を殺してはいけないのか」というエントリーがあった。

http://thinkdeep.livedoor.biz/archives/13491218.html

ブログの題名は「考える力をつける」、内容は「考える力をつけて、物事の本質を見抜けるようになりましょう!」というもの。

しかし、僕はこの文章に「物事の本質」はないと思うのだ。

ただ、優等生的な「大人の答え」を書いているだけ。

これが「物事の本質」だというのなら、僕は「本質」なんてただのまやかしだと思う。




この文章を書いたブロガーは、質問に対してこのように書いている。


ある意味とっても正直な質問ですが、こういった質問をする人には、致命的な3つの欠如があります。

これが、僕が人を殺さない理由です。


(1)コミュニケーション能力の欠如。

嫌なことを自分がされたらどうなるかという視点が全くありません。普通、我々は幼少期から大人になるにかけて、友人関係の中で『他人の嫌がることはしない』という、社会で生きるうえで基本的な考え方を身に付けていきます。そういったコミュニケーション能力が決定的に欠如しているのですね。


(2)社会性の欠如。

人が人を殺しあうことが、公に認められる社会になったらどうなるかという、社会的に物事を考える視点が欠如しています。自分の視点しかなく、社会の一員という視点が全く無いわけです。


(3)イメージ能力の欠如。

3番目として、イメージ力の欠如です。上記2つをイメージする能力もそうですし、人が人を殺しあったらどうなるか、どれだけ痛い思いをするとか、自分も危険な目に遭うとか、そういった自分以外のことについてのイメージ力が全くありません。


ブロガー自身が書いていることだが、これは非常に正直な質問だ。

「人を殺してはいけない」これは、世の中に規定された基本的なルールの一つだ。

そして、その理由はあまりはっきりと示されることがない。

だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」なんてベーシックな疑問が出てくる。


このブロガーのような答えを返す識者は多い。

ただ、彼らの答えには、巧妙な言い逃れがあると思うのだ。

それは、「人が人を殺さない理由」と「人が人を殺してはいけない理由」を意図的に、または無意識に混同していること。

これは、卑怯な手だ。


そう、人は法律がなくったって、罰則がなかったって、そう簡単に人を殺さない。

僕だって、たぶん一生、人を殺すことはないだろう。

その理由は、上に書いてあるブロガーの答えと一致する。

ただ、それはこの「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには、何の答えも示さない。

もう一度書くが、「人が人を殺さない理由」と「人が人を殺してはいけない理由」は同一ではないから。

僕の考える「物事の本質」はここにある。



「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対し、それを問うた人間の資質を探っても、ただの逃げでしかない。

限られた時代の中で成立する一つの思想である社会や道徳を、この問いにぶつけても何の意味もない。

いや、「人が人を殺してはいけない」というルールそのものが、限られた時代の中で成立する、小さなルールでしかないという事を露呈するだけ。


本当に考える力を養いたいのなら、道徳や社会に惑わされず、その問いに正面からしっかりと向き合うことが大事なのではないかと思う。

それがどんなに反社会的であろうと、どんなに道徳から外れたものであろうと。

http://app.blog.livedoor.jp/thinkdeep/tb.cgi/13491218

http://anond.hatelabo.jp/20071114004312

痛がっているのが共感できたり、冷酷非情な社会が出現することを恐れたりなど、そう言ったことが理由にあるから、人は人を簡単に殺したりはしないだろう。人が人を殺さない理由はいくつかあるというわけだ。

しかし、そのことと、「殺すなかれ」という倫理はなぜあるのか、それは何なのかという問いは、別の問いである。

そう言うことだね。

http://anond.hatelabo.jp/20071114005141

人を殺すなかれなんて倫理はあるのか?

どこにあるんだ?

あるなら見せてくれ。

http://anond.hatelabo.jp/20071114005245

見えるものしか認識できないのか?

お前の存在意義はどこにある?

あるんなら見せてくれ。ないのなら消えてくれ。

http://anond.hatelabo.jp/20071114005843

つまり君はあるかないかも分からない倫理を、あるという前提で話を進めようとしているわけだ。

大雑把な雑魚だな。

http://anond.hatelabo.jp/20071114010146

前提がないと話し合えないこともあるんだが。



「雑魚」「白痴」「低脳」等のキーワードを使う人間にはある傾向がある。

いくらそういった単語を投げつけようと、お前さんの意図した意味にはならないよ。

続けられてる議論に関係なく書きます。

「人を殺してはいけないという倫理」が存在するかについて。

思考実験ではなく、切実に。


ある意味とっても正直な質問ですが、こういった質問をする人には、致命的な3つの欠如があります。

これが、僕が人を殺さない理由です。


(1)コミュニケーション能力の欠如。

嫌なことを自分がされたらどうなるかという視点が全くありません。普通、我々は幼少期から大人になるにかけて、友人関係の中で『他人の嫌がることはしない』という、社会で生きるうえで基本的な考え方を身に付けていきます。そういったコミュニケーション能力が決定的に欠如しているのですね。


(2)社会性の欠如。

人が人を殺しあうことが、公に認められる社会になったらどうなるかという、社会的に物事を考える視点が欠如しています。自分の視点しかなく、社会の一員という視点が全く無いわけです。


(3)イメージ能力の欠如。

3番目として、イメージ力の欠如です。上記2つをイメージする能力もそうですし、人が人を殺しあったらどうなるか、どれだけ痛い思いをするとか、自分も危険な目に遭うとか、そういった自分以外のことについてのイメージ力が全くありません。


これらの3つの主張で読み取れることは、「自分が人を殺さない」ことに明確な理由があること。

つまり、その明確な理由を除去してしまえば、人を殺さない理由はなくなります。


ちょっと深読みですが、このような書き方ができます。


(1)コミュニケーション能力により相手の感情が想像できるから、殺人はしない。

→コミュニケーションがとれない相手、想像が及ばない相手に対する殺人は問題ない。


(2)人が人を殺すことが社会的に問題であるから、殺人はしない。

→社会的な問題が解決するのならば、社会的に問題のない殺人(死刑など)には問題がない。


(3)人を殺し合うことが自分自身へのリスクになるから、殺人はしない。

→自分自身にリスクが及ばない場合は、問題がない。



最近「凶悪な犯罪者なら殺してもいい(死刑になるべき)」という考えが支配的になっているような気がします。「人を殺してはいけない」という問いに対して、いまでもほとんどの人がYesと答えると思いますが、同時に「凶悪な犯罪者は死刑になるべき」という問いにもかなりの人間がYesと言うだろう、そう思います。


矛盾していますが、この2つの問いに対する結果は、割合多くの人が共有するイメージではないでしょうか。

「凶悪な犯罪者は死刑になるべき」という問いは、上の3つの「僕が人を殺さない理由」をクリアします。

そこに、人を殺すことについての、明確な否定はなくなる。


「人を殺してはいけない」ということと、「人を自分は殺さない」ことが同じ事のように扱われた結果、「人を殺してはいけない」という倫理が、「基本的に人は殺してはいけないが、条件付きで殺していい」という考え方に徐々にとって変わられているような気がします。


いや、もしかしたら、最初から「基本的に人は殺してはいけないが、条件付きで殺していい」という倫理しかなかったのかもしれませんが。




自分自身で思うが、こういうのって事の本質からズレてるよな。

「人を殺してはいけない」の答えには、まったくなってない。



http://anond.hatelabo.jp/20071114004312

http://anond.hatelabo.jp/20071114033328

うーん、さっきのおかしな人はともかくとして、


「人を殺してはいけない」はひとつの確定した倫理だと思いますよ。まずはこれを認めないとどうしようもないです。


ただ、その倫理に従わなくてはいけないかというと、ほかの相矛盾する状況だとかがあって、必ずしもそうとは限らないという話だと思います。


倫理には必ず従わなくてはならない、という前提やら思い込みがあるんじゃないですかね。そのせいで、話がおかしくなっている。


「なんで人を殺しちゃいけないの?」という問いには、そういう事になっているからだよ、で十分だと思いますが、へりくつをこねる子どもには、やっぱり歴史的経緯とか、人間社会のモデルを使って、「そういう倫理を認めないとおかしいことになる」から、「『人を殺してはいけない』という倫理は極力守りましょうね」という話になるんじゃないかなと思います。

http://anond.hatelabo.jp/20071114033919

確定した、というわりには「思う」ってゆー矛盾。

自分が理解できないことをおかしいっていう、そういうあなたはおばかさん。

http://anond.hatelabo.jp/20071114034142

まあ言い換えてもいいんですが、「人を殺してはいけない」は倫理です。倫理と信条が衝突するケースはあるにせよ。わたしは元のエントリで言葉の定義についても言及していると思って下さい。


矛盾ではなく、I believe that it is a fact. と言っています。 「それが事実(確定している)と私は思っています。」これは矛盾ではありません。聞く人がそれを反証する余地を残すために、よく「…思います」"believe" という表現が用いられますが、矛盾ではありません。


# 他でも指摘されているけど、どうしてそうやって馬鹿にしたり噛み付くことしかできないのか、理解に苦しみます。

http://anond.hatelabo.jp/20071114035148

ちなみに、私は

倫理を証明するといっておきながら、倫理を用いているという循環論法。

ということはしていません。あくまでも、ずっと「殺人禁止は倫理のひとつである」としか主張していません。


倫理と、信条やら状況が衝突する場合はままあることで、「なぜ人を殺してはいけないか」は、そういった状況を含めて聞いているのだとは思います。何度も言っているように。

http://anond.hatelabo.jp/20071114035522

私は、といわれてもどれが「私」なのかはわかんないんだけどね、増田だから。

前の方で、倫理はある、と断定してと思うけど。あると思う、じゃないよね。

http://anond.hatelabo.jp/20071114035522

それを言うなら、ある場合における殺人禁止は倫理とされている、でしょ。

あなた文章が粗雑すぎるのよ。殺人禁止は倫理であれば、ありとあらゆる状況の殺人が倫理上悪となるってことなのよ。

わかってるの?

http://anond.hatelabo.jp/20071114040724

文章が粗雑なのではなく、いちばん単純で、かつ誤りのない形で書きました。

あくまでも完全にものごとを記述したいというあなたの気持ちは分かりますが。


「殺人禁止は倫理である」は、それ自体は誤りではないです。

そもそも倫理それ自体、例外的な条項が加わったり、矛盾する倫理が存在することもあるために、それだけでは受け入れ難いと思われるかもしれませんが。


ふつうの論理体系であれば、あとづけで命題の真偽が変わってはなりませんが、倫理の場合はそのかぎりではないです。

すべてちゃんと言うと、「殺人禁止は倫理である」「戦争で他人を殺すのは倫理である(仮に)」という2つの言明が同時に真であり得るということです。

倫理は矛盾を許容するため、この2つの言明が同時に真であってもおかしいという事にはなりません。


倫理に無矛盾性を期待しているのではないかと邪推します。倫理とは、矛盾をはらみつつも、時代や状況によって変化するダイナミックな側面があることはご存知かと思うのですが。


ここで、倫理の例外条項があとづけ可能であれば、どのような倫理も許容されるという反論があるかもしれませんが、倫理それ自体は、たとえば既存の文献や、暗黙の社会的合意などを参照してかなり正確に定まるため、任意の言明が倫理として許容されるわけではありません。


まあ、言葉遊びに近いですけどね。

posted by tsukamoto at 04:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会
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